誰が語っているのかということの重要性。

どれくらい昔になるだろう。
図書館の棚にあった「新潮カセットブック 小林秀雄講演 文学の雑感」を借りた。
語り口が耳に心地よく、返却期限まで何度も何度もくり返し聴いた。
小林秀雄の文章はぼくには難しくてよくわからなかったが、
そして実はこのテープで語られていることの中身もちゃんと理解できているとは言えなかったが、大好きになり、続巻も借りて聴いた。
それから何年か経ってカセットはCD化され、
著名なひとたちも愛聴していることを知った。
たとえば当時「ウェブ進化論」がベストセラーになっていた梅田望夫さんは、
ブログ読者に「移動中に小林秀雄の講演CDを聴いて楽しんでいる。このような音源をほかにご存知のかたはいませんか」と呼びかけていた。
これに対して「同じ新潮社から司馬遼太郎の講演CDが出ていますよ」と回答が寄せられていて、そんなことはトウにご存知に違いないはずの梅田さんが「情報ありがとうございます」と誠実に返信されていたのが印象に残った。
糸井重里さんもweb上でこの音源への賛辞を寄せていた。
糸井さんはのちに吉本隆明の膨大な講演テープのデジタル化と無償公開に尽力された。
その取り組みの契機は小林音源だったのではないかなあとぼくは思っている。

このところ「AIスピーカー」なるものの登場もあり「聴く」時間の争奪に関心が集まっているようだ。
でも、たとえば小林秀雄の音源をテキスト化して人工音声に朗読させたとして、
同等の感興が得られるだろうか。「渋江抽斎」は。「明暗」は。

何が読まれて(語られて)いるか以上に、
誰がどんな間(ま)で読むのかが重要なのだ。

AIはチェスや囲碁との闘いを始めているようだが、次の敵は「声」かもしれない。