誰が語っているのかということの重要性。

どれくらい昔になるだろう。
図書館の棚にあった「新潮カセットブック 小林秀雄講演 文学の雑感」を借りた。
語り口が耳に心地よく、返却期限まで何度も何度もくり返し聴いた。
小林秀雄の文章はぼくには難しくてよくわからなかったが、
そして実はこのテープで語られていることの中身もちゃんと理解できているとは言えなかったが、大好きになり、続巻も借りて聴いた。
それから何年か経ってカセットはCD化され、
著名なひとたちも愛聴していることを知った。
たとえば当時「ウェブ進化論」がベストセラーになっていた梅田望夫さんは、
ブログ読者に「移動中に小林秀雄の講演CDを聴いて楽しんでいる。このような音源をほかにご存知のかたはいませんか」と呼びかけていた。
これに対して「同じ新潮社から司馬遼太郎の講演CDが出ていますよ」と回答が寄せられていて、そんなことはトウにご存知に違いないはずの梅田さんが「情報ありがとうございます」と誠実に返信されていたのが印象に残った。
糸井重里さんもweb上でこの音源への賛辞を寄せていた。
糸井さんはのちに吉本隆明の膨大な講演テープのデジタル化と無償公開に尽力された。
その取り組みの契機は小林音源だったのではないかなあとぼくは思っている。

このところ「AIスピーカー」なるものの登場もあり「聴く」時間の争奪に関心が集まっているようだ。
でも、たとえば小林秀雄の音源をテキスト化して人工音声に朗読させたとして、
同等の感興が得られるだろうか。「渋江抽斎」は。「明暗」は。

何が読まれて(語られて)いるか以上に、
誰がどんな間(ま)で読むのかが重要なのだ。

AIはチェスや囲碁との闘いを始めているようだが、次の敵は「声」かもしれない。

 

 

 

なにかの始まり


テレビスポット01

テレビでスポットCMが流れた。
何のCMだろう、友近さんが出ているなあ、
でも今をときめく友近さんにしては、近場の公園で適当に撮影したような、
つまりはぼくが普段つくっているような、
ずいぶんチープなCMだなあ、とまず思った。

最後に検索窓が出て、CMのメッセージにはじめて気づいた。それは、
「新卒者の皆さん、ローカル局の採用試験を受けてください」というものだった。

給与は地域の最上位、転勤も(ほぼ)なく、親の近くで暮らせる。
その昔、都市圏の大学からのUターン希望者にとって、
地方局は第一地銀と並ぶ「Sランク」の就職先だった。
それがいつのまにか、こんなことになっていた。
ぼくみたいな端っこの、そのまた端っこの人間でも、
(むしろ「だから」というべきか)長い間働くなかで、好不況の波を肌で感じる。
その感覚から言えば、平成30年春のいまは、景気はいい。忙しい。
ぼくが若かった頃のようだ。

その業界が、就職活動世代から避けられているという。
確かにぼくがいま22歳だったら、
30年後にローカル局が「残存」しているという想像はできないだろうなとは思う。
息子たちの、(端っこの端っことはいえ)父親が働く世界に
なんら興味も関心もない様子を見るだけで、それはあきらかだ。

先のことは誰にもわからないが、
「ここはなくなるだろう。でもこれがなくなったあと、
その役割(商圏)を誰が(なにが)引き受けるのだろう」ということは、
10年以上前から考えていた。
ぼくが現役で働いているうちになくなることも充分にありえたが、
そして「2011年 新聞テレビ消滅」なるコケオドシにしてもあんまりな表題の著書もかつて出版されたが、結局なにもおこらなかった。

 おこりそうでおこらず、おこらなそうでおこるのが世の中だけど、
さてこれはなにかの始まりを示すものなのだろうか。